大学生活

【5】

】、【】、【】、【】、【5】、【】、【あとがき

* 7 *

 次ぎの日の朝は、珍しく早く目が覚めた。
 二度寝しようかと思ったが、まだ早朝だというのに猛暑の日差しと暑さがそれを遮った。
 朝食は腹が減っていないので抜くことにした。といっても、そもそも俺の人生の中で朝食を体に入れるという習慣はあまりない。
 空腹でもないのに腹にものを詰め込むのはおかしい。この年になって身体の成長のため朝食を食べようとは微塵も思わない。
 喉が渇いていたので冷蔵庫を開けたが、飲み物が空だったためぬるい水道水で我慢した。
 しばらく何もせずただテレビを見ていたが、やはり昨日の美咲の様子が気になった。
 俺は外に出た。
 七月からこの暑さだったら八月は地球が溶けてしまうのではないか、という余計な心配をしながら小坂家へ向かう。数歩歩くだけで玄関に辿り着いた。
 呼び鈴を押してしばらく待つ。反応が無い。もう一度押す。カーテンや雨戸も閉まったままのところからみても、どうやら留守のようだ。
「家族旅行にでも行っているのかな……」そう思い引き返した。
 家に戻りテレビをつけ、アルバイト雑誌をめくった。
 高校時代は大学に入るためにアルバイトを必死にやったが、あのときの気分にはなれなかった。親の仕送りもゼロの俺にとってはお金をつくらなければ大学生活どころか私生活も危ない。しかし、どうも危機感が沸かない。
 美咲は、明日から旅行に行くんだ、とでも俺に伝えようとしたのかな。いや、そんなわけはない。旅行に行く前だったとしたら、大学は楽しいのかなんて質問はするわけがない。
 いつの間にか俺は昨日の美咲のことで頭がいっぱいだった。

* 8 *

 一週間が経とうとしていた。
 小坂家は相変わらず留守である。これだけ長い間留守ならば本当に家族旅行かもしれない、そう俺は思った。
 今日から一ヶ月間、大学では午後から夏期講習が開かれる。N大学の夏休みは七月の中旬から九月の中旬まで丸二ヶ月あり、八月いっぱいは講習が行われるというわけだ。
 夏休みでも大学は開放されていてサークル活動なども行われているらしい。無所属の俺にとってはどうでもいいことだったし、まして単位に関係のない自主参加型の夏期講習に出るなんて考えられない。出席する学生はさぞかし大学での勉強が楽しいのだろう。教授たちもこの猛暑の中、クーラー完備でない低レベル大学での講義ご苦労様といったところだ。
 ここ数日買い物すら行く気が起きなかった。
 いつもなら美咲と一緒に買い物に行くのだが、その美咲が今日もいない。
 財布はもちろん冷蔵庫の食料もそろそろ限界だった。
 今日も一日の大半を寝て過ごし、テレビをつけてぼんやりとしていた。あっという間に夜になった。もっとも、午後近くまで寝ている俺にとっては当たり前の時間の流れだった。
 テレビのニュース番組が夜中の十一時を告げた。
 こんな俺でもさすがに一日の終わりが近づくと腹が減る。予備のカップラーメンがあと一個だけ残っていたのを思い出す。やかんでお湯を沸かす。
 こんな生活をしていると、テレビこそあるものの本当に山小屋で助けを待つ者のようだなとふと思い、少し笑えた。
 お湯が沸いたので注ぐ。本当は暑いのでラーメンなんて食べたくなかったが仕方がない。
 やかんの蒸気は狭い部屋の温度を数度上げたため、俺は窓を開けた。夜の生ぬるい風が部屋に流れ込む。今日は少し風があるようだが、それでもじとじとした夏の夜独特の風だった。
 この辺りは虫が多いのか、よくわからない生き物たちの合唱が聞こえる。小坂家の二階が目に入った。
 美咲が帰ってきたら、大学にでも連れて行ってあげよう、そう考えた。あのときの美咲の気持ちはいくら考えても自分にわからないが、はっきりと大学に行きたいとだけは言っていた。
「大学なんて行っても何も無いのにな……」
 そう独り言を呟いたとき、玄関がノックされた。ノックだとすぐにわかったのは一週間前のそれと同じ調子だったからだ。
「あ……。美咲ちゃん帰ってきたのかな」そう思い、俺は玄関まで行きドアを開けようとした。
 しかし、
 ――開かない。鍵は開いている。
 少し重いドアではあるがこんなにも重くはないし、いくら力を入れてもびくともしない。
 俺は覗き穴から外を見た。この景色もこの家で生活してから初めて目にするものだった。玄関の電灯は引っ越してきたときから切れていたが面倒だったので変えていない。それでも夏の夜は暗闇ではなく、少し暗い色調に染まっているがある程度は見渡すことができる。
 視界の下の方に真っ赤なリボンが見えた。
 ――美咲だ。リボンしか見えず、表情を確認することはできない。
「……美咲ちゃん? ごめん。ちょっとドアが開かないんだ」
 そう言いながらまたドアノブを押す。
 ――そのとき、
「わたし、ひとりではいけないの」
 ドアの向こうで美咲が言った。玄関の下、美咲の声の発する位置からそれは聞こえたが、まるで耳元でささやかれたように鮮明だった。
「あ、大学のこと……だね? 今度一緒に行こうよ」
 と俺は答えた。
 そのとき部屋の奥の窓が、がたがた音をたてて揺れた。ぬるい風が部屋の中に強く流れ込む。それと同時にドアがふっと軽くなり勢いよく開いた。俺は転びそうになった。
「うあ!」
 外に投げ出されるような形になったため、俺は慌てて踏み止まった。少し心臓がどきどきする。
「びっくりした……、あれ?」
 俺は顔をあげたがそこに美咲の姿はなかった。
「あれ、美咲ちゃん?」
 裸足だったことに気づき、サンダルを履き少し玄関先まで出た。美咲はどこにもいなかった。
「おかしいな……確かにいたのに」
 そのとき部屋の中で音が鳴った。テレビの音にしては大きい。電話が鳴っているようだ。俺は部屋に戻り受話器を取る。
「はい、もしもし」
「あぁ、山田さん? 私、隣の小坂です」
 美咲の母で大家の小坂さんだった。早口なのはいつものことだが少し声に覇気が無い。
「あ、どうも。今美咲ちゃんがうちに来ましたよ。でもすぐにどこかに行ってしまったらしくて……」
「え! そんな!」
 小坂さんは突然大きな声を出したので俺はおもわず受話器から耳を離した。
「そんなはずはないわ! 美咲は……美咲はさっき……」
 そこまで言って声は途切れた。声を押し殺し泣いているように聞こえる。
「あの……小坂さん?」
 しばらくして小坂さんは落ち着きを取り戻したのか、ゆっくりと話し出した。
 一週間前、俺と美咲が図書館に言ったあの日、美咲は入院したらしい。
 もともと定期的に通っていた病院から入院を勧められていたようだ。その日は朝一番で病院に行く予定だったが、夜になるまで美咲が戻らなかったと言う。小坂さんがどこに行っていたのか聞いても美咲は答えなかったらしい。それから数日は美咲の容態が悪くなり、小坂さんも病院で寝泊りするようになった。
 俺に連絡をしようと思い何度も電話をかけたが繋がらなかったらしい。
 そして――、
 先ほど十一時頃に息を引き取った。
 俺はそこまで聞いて受話器を置いた。何か他にも小阪さんと話したかもしれないが、何を話したか覚えていない。
 俺は呆然とした。
 美咲が……死んだ? なんで? 今俺のところに来たじゃないか。ついさっきだ。玄関の向こうに確かにいた。リボンだって見えたし、話もした。
 俺はしばらく受話器の前で立ちすくしていたが、自然と玄関の方へと向かった。
 ここに美咲は……。
 そのとき、つま先に何かが触れた。
 見るとそこには、
 フランス人形がいた。
 美咲がいつも持っていたあの人形だった。玄関と部屋の数センチの段差の位置に、まるで腰掛けるように存在している。蒼い瞳の先は開け放れた玄関の遠くを見ているようだった。
 俺はそれを持ち上げ部屋の中に入る。小さな人形の割には少し重い。本当は美咲の方がずっと重いはずなのに、美咲と同じくらいの重さに感じた。
 俺は人形をちゃぶ台の上に置いた。座りやすいように作られているのか平面でもバランスがいい。
 サイドの巻き毛を留める赤い小さなリボンと、今は図書館で見たときには無かった、頭の上にも赤いリボンをしている。
「……」
 俺はしばらく人形を見つめていた。人形も俺を見つめていた。
 ――そうだ、カップラーメンを食べるんだった。
 俺は蓋を開け、麺を食べようと箸を入れる。しかしふやけきった麺はうまく掴めない。
 少し手が震える。
 腹もそういえばもう全く減っていなかった。
 流しに行き麺を捨てる。
 そのとき、麺と一緒に流しに涙がぼたぼたとこぼれ落ちた。いつの間にか目は涙でいっぱいになり、俺の瞳はその雫を支えきれなくなっていた。
 麺がうまく排水溝に流れてくれない。
 蛇口を思い切り捻る。これでもかというほどに捻る。
 外の虫たちはもう鳴くことに疲れたのか、静かだった。
 蛇口から流れる水を止めようとは思わず、俺は小さく声をあげて泣いた。


続く


この作品は黒筆書房ホームページ開設記念に書き上げたものです。
連続小説でまだまだ続きます!
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