霧と霞と小さな魔法

【5】

】、【】、【】、【】、【5】、【あとがき

* 8滴の水溜り *

 およそ五十体は作っただろうか。黙々と作っていた僕は少し手を休めた。
 作りながら、香澄が来ないものかと考えていた。あの子には、どこか不思議な雰囲気がある。もう一度会って話がしてみたいと思っていた。
 てるてる坊主を作り始めて一時間は経っただろうというとき、雲がまた厚くなり始めて、あっという間にぽつぽつと雨が降り出した。僕は傘を持っていないことに気がつく。こんなことなら晴れているうちに帰ればよかったと少し後悔した。しかし、引き受けてしまったからにはもう少し作らないといけないと思い、僕はまたてるてる坊主の作成にとりかかった。
 すると、神社の脇から音もなく香澄が現れた。まるで雨を待っていたかのような登場だった。
「はぁい、陽一くん。本当に来てくれたんだぁ」香澄はゆったりとした口調で言う。
「うん、いつだったか、僕から作るって言ったから少しは手伝おうと思ってね」僕は答えた。そこで、僕はずっと気になっていたことを香澄に聞くことにした。
「香澄は、どうして僕がここに来るといつもいるの? もしかしてこの神社の子?」
 香澄は答えず、黙って僕の隣に腰掛けた。ここは幸い小さな屋根があるため雨には濡れない。今日も桃色の鮮やかなレインコートが眩しい。
 香澄の表情が一瞬表情が硬くなった気がした。しかし、けらっと笑い僕を見つめ、こう答えた。
「あたし、地縛霊なの」
 ――。
 突然の発言に僕は何を言っているかを理解するのに数秒かかった。
「……え? なんだって?」頭にクエスチョンマークが本当にでるかのような表情をしていたかもしれない。
「じ・ば・く・れ・い、幽霊のこと。あれぇ? 知らない?」香澄は指でぽんぽんと空中を叩く仕草をしながら答え、逆にクエスチョンマークを出してきた。
「知っているけど……、何かの冗談でしょう?」
「ううん、本当よぉ。昔ちょっとあってね。死んじゃったのぉ」香澄は喋っている内容とは結びつかないような笑顔で言う。
 しばらく何がなんだかわからなかった僕は、次第にからかわれているのだと思えてきた。きっと僕の反応を見て楽しむつもりだろう。
「へ、へぇ。そうなんだ」僕は騙されまいという気持ちで、簡単なリアクションをした。
「あらぁ、驚かないなんて。こっちがびっくりだわぁ!」香澄は手を口に当てる。
「そんなことより香澄も作ってよ、てるてる坊主。僕はもうこんなに作ったんだよ」僕は無造作に並ぶ白い塊を示した。
「はぁい」香澄は面白くないな、とでも言いたそうに頬を膨らませたかと思うと、布を手に取りてるてる坊主を作り始めた。
 いくらなんでも幽霊だなんて言われて、はいそうですかと信じる人がいるだろうか。顔は青白く足も無くて、頭に三角の布きれでも付けていれば話は別だが。
「うんっ! 一つ完成!」数分後、香澄はてるてる坊主を作り終えたようだ。
 僕は隣の香澄の手元を見た。しかし、いつかのときのてるてる坊主と変わらない、ただのくしゃくしゃした布にしか見えない。
「だからこうやるんだってば」僕は布と紐を取り、ゆっくりと作る過程を香澄に見せた。香澄はその様子を、両膝を抱え真剣に見つめる。やがてまた一つのてるてる坊主が出来上がった。
「うーん、陽一くんはやっぱりうまいねぇ、うんうん」香澄は手に取りしげしげと眺める。
 僕は香澄に作り方を教えることにした。端から丸めながら頭を作り、余った布で整えて首を結ぶ。香澄にはまだ難しいらしく、丸めた布を頭の中に入れ、作っていた。
 作りながら僕と香澄は少し会話をした。
 香澄はどうやら僕より一つ年上で、この近所に住んでいるらしい。もっとも、家の場所を聞くと、森の奥を指差し、あっちの方かな、と曖昧な返答をしたのだが。
 もう少し香澄のことを知りたいとは思ったが、あまり質問ばかりするのも失礼かと思い黙っていることもあった。
 雨の振る神社の周辺はとても静かだった。
 雨音以外は耳を澄ましても何も聞こえない。
 その静かな時間がただ過ぎていく空間を香澄と二人でいる僕は、悪い気持ちはしなかった。
 横を見ると香澄が未だに慣れないのか苦戦しててるてる坊主を作っている。腰まで届く髪は濡れていて少しなまめかしい。
 その時ふと僕は思った。
 この子は本当に幽霊なのかもしれない、と。何故だかわからないけど……。

 小一時間ほどたっただろうか。時計に目をやると既に六時を回っている。
 僕は、「そろそろ帰る?」と香澄に尋ねた。
 てるてる坊主は二人の手によって大量生産されたおかげで、仲間を百近い数にまで増やしていた。
「もう少し! あとちょっとだけ作ってくれない? お願い」アメジスト色の瞳で僕を見つめる。
「んー、少しだけなら」そう答えた僕も、帰るかと聞いておきながら内心はもう少しここにいたかった。
 ゆっくりと暗くなる紫陽花の森が、この神社の境内の空間も少しずつ止めているような錯覚がした。
 今まで味わったことの無い不思議な雰囲気だったが、とても安らぐ気分だった。
 雨は止む気配は無い。それどころか少し強さを増したようだ。
 足元のすぐ近くの水溜りはすっかり大きく成長している。
 電灯も無いこの周辺は、あと数時間もすれば暗闇に溶け込んでしまうだろう。雨と一緒にこの空間が溶けて無くなってしまう映像が、一瞬脳裏に浮かんだ。その時ばかりは少しだけ怖くなった。
 ――ふと心に浮かんできたことを素直に、僕は香澄に聞いてみた。
「香澄はさ、……雨って好き?」
 香澄は手を止めて僕を見た。紫の瞳は周囲の薄い闇と半ば同化し、暗黒い絵の具のようにみえる。顔は笑っていなかった。
 香澄は、「……嫌い」小さな声で答え、視線を落とした。「水溜りってさぁ……」
「え?」
 香澄は突然立ち上がった。ゆっくりと、僕から離れるようにして歩いていく。
「水溜りってグツグツ煮えたぎっているように見えない? 雨粒が落ちて、波紋ができるでしょう。小さな泡が立ったり、ぴしゃぴしゃしぶきが飛んだりして。小さな冷たい……、冷たいマグマに見えるの。そこに飛び込むとね、自分の体は吸い込まれるようにして溶けちゃうの。……怖い。そんなものがいくつも地面に生まれて……、やがて地表全てが本当のマグマになっちゃうような気がして怖いの」
 スローモーションの映像を見ているように、香澄はゆっくりと歩き、白い紫陽花の付近に行った。周囲の暗さは、青と紫の紫陽花を消し去ったが、控えめな白い紫陽花の群生だけが恒星のように薄く光っているように見える。
「あなたにはどう見えている?」
 香澄が水溜りを踏んだのか、どこからかぴしゃっという小さな音響いた。香澄の足元は暗くてよく見えない。
 僕は少し考えて、「水溜りが……、マグマには見えたことはないかな……。でも……」答えた。
「でも?」香澄は首を傾けた。
「嫌いじゃない。僕は雨そのものが嫌いじゃないから。雨が作った水溜りも一緒だ。確かに鬱陶しいこともあるけど……。でも、綺麗だって思うこともある。雨は邪魔者なんかじゃないよ。怖くなんか無い。僕はそう思う」
 香澄はぴたりと動きを止め、僕をじっと見つめている。
 桃色の鮮やかなレインコートは、暗いその位置でもはっきりと輪郭を残している。しかし、腰から下は少しぼやけているように見えた。
「……そっか。あなたって不思議ね。でも……、でも雨が終わると何もかも終わるとしたら? 雨の季節だけしか自分がいられないとしたら? そんな雨の呪いみたいなものにかかったとしても……、それでも雨が好きって言える?」
 香澄は少し声を大きくして言う。いつもの喋り方では無く、口調がはっきりとしていた。
 僕は少し考え、ゆっくりと答えた。
「それはきっと、雨に好かれているんじゃないかな。自分の周りがずっと雨だってことは、雨はずっと一緒にいて欲しいって思っているのかもしれない」
 僕の答えを聞いた香澄はしばらく黙っていた。
 周囲はすっかり暗闇になっている。
 静かだった。
 とても静かだった。
 雨の音しか聞こえない。
 さあっと、ただ永遠と降り続く雨は、彼女を溶かすように濡らしていく。
 やがて、香澄は言った。
「それでも、もうあたしは雨が無いと……。雨が嫌いでも、これからもずっと……」
 泣くような声でそう言いながら、香澄はすうっと雨の中に溶けるようにして姿を消した。
 香澄が持っていたてるてる坊主が、音も無く地面に落ちた。
 それは彼女が作った中で一番の良作だった。

* 10滴の誓い *

 気がつくと僕は自分の家の布団にいた。母さんが心配そうに僕を覗いている。
「……陽一、陽一! 大丈夫? 昨日は大変だったのよ。どうしたの? 学校の正門で倒れていたのよ……」
 母さんは僕に話しかけるが、まだ頭が働かない。
 頭痛がする。喉も少し痛い。
 既に翌日の朝を迎えているようだ。窓から降り注ぐ日差しが眩しい。
 ドライアイスがゆっくりと昇華されるように、僕の頭はだんだん昨日のことを思い出してきた。
 僕は勢いよく立ち上がった。少し立ちくらみがした。よろめきを振り払い、靴を履き、玄関を駆け出した。
 母さんが後ろから何か叫んでいた。
 僕は走った。走りながら考えた。
 もう一度森へ、神社へ、――香澄!  空はすっかり晴れ渡り、青い画板にまばらに散った真っ白な小さいな雲。日差しが地表に降り注いでいる。
 数分で学校の正門へと到着した。
 紫陽花は水々しく、微小な水玉を葉からぽたりぽたりと輝かせながら滴らしている。
 ――見つからない。
 あの真っ白な紫陽花がどこにも見つからない。
 いつもこの辺りに……。思い当たる場所の紫陽花を掻き分けるが、白い紫陽花は見つからなかった。
 紫陽花を掻き分けて、また探し回ろうかと思ったが……、止めた。
 もうあの場所には行けないのかもしれない、そんな気がした。探しても、探しても、もう決して辿り着けない場所なのだと。
 僕は諦め、天を仰いだ。
 そこにあった快晴は、とても懐かしいように思えた。
 空中に残る水分がプリズムとなり、鮮やかな七色のアーチを生んでいる。
   今日で、七月に突入したことを思い出す。
「天気予報はまたはずれだ……。もう梅雨なんて来そうにないじゃないか……」
 香澄の願いも空までは届かなかった。
 綿雲は少しずつ大気中の水分を吸収するように大きくなる。
 いつか、あの綿雲が大きな、もっと大きな綿雲に成長し、入道雲になる頃、本格的な夏がやって来る。
 僕はしばらく空を見上げた。

 ――梅雨の終わりのその空に。
 空の広さに比べると、とてもちっぽけな誓いを立てた。

 また一年後に……。
 梅雨の季節にまたきっと……。


あとがき

この作品は梅雨の季節に書き上げた連続小説です。
これにて完結です!
ここまで読んでくださってどうもありがとうございます。
感想、批判、一言、誤字脱字……なんでも大歓迎です。
ずばり、○○点だ! と百点満点の点数を付けていただけると嬉しいです。
書き込みの際は、どこかに『霧と霞と小さな魔法』と表記していただけると助かります。

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