霧と霞と小さな魔法

【2】

】、【2】、【】、【】、【】、【あとがき

* 2滴の道標 *

 「おはようございます。今日の天気です。今年の梅雨前線は、例年に比べ関東を一足早く覆いました。大きな気圧の変化もみられないため一ヶ月近く関東を停滞するでしょう」テレビの中でお天気キャスターが笑顔で言う。
 まだ眠い目を擦りながら、僕はパンをかじっていた。まだ六月の初めだというのに、静岡も本格的な梅雨入りを迎えたらしい。今日も朝からしとしとと雨が降っている。
「陽一、今日から学校だろう? どうだ、気分は?」
 父さんが新聞から目を離し、僕に話し掛けた。
「うん。眠い」
「また、友達できるといいな」そう言うと、父さんはまた新聞に目をやった。
「うん」僕はパンを一気に口に押し込む。
 メールや手紙をくれる友達もいるにはいるが、引越し先まで遊びに来てくれるような友達は僕にはいない。父親なりの心配の仕方なのだろう。僕は特に気に留めることも無く学校へ行く準備をした。
「それじゃ、いってきまーす」
 僕は傘を掴み玄関を出る。アパートの軋む階段を駆け下り、傘を開く。昨日の夜に父さんが僕にくれた黒い傘だ。誕生日でも無いのに、転校初日の僕へのお祝いなのか。まったく父さんらしい。僕には少し大きなその真っ黒な傘を差しながら、学校へ向かった。
 三十分ほど歩くと学校の正門へ到着した。
 昨日窓から見えた景色はやはり高校であった。間近で見るとなかなか大きい。そういえば中学校も付属だったっけ、と思い出す。
 しかし、学校の大きさより気になったのは、その隣の森だった。昨日は森に見えたそこは、木だけが生い茂る森ではなかった。確かに木も生えているが、森をつくるそのほとんどが紫陽花だった。これでもかというほど一面に広がっている。
 僕が前にいた東京では、庭に紫陽花を植えている家をたまに見かけたが、こんなにも群生した紫陽花を僕は見たことがなかった。あっ気にとられていると学校からチャイムが鳴るのが聞こえた。
「うあ、初日から遅刻だ!」僕は急いで学校の門をくぐった。

 僕にとって、呼吸するのと同じくらい当たり前になった自己紹介を済ませた。
 不思議なことに、このときのクラスの様子はどこの学校へ行っても同じものだ。それほど僕が何の特徴も無い人間なのだということだろう。
 ある人は気さくに話かけ、ある人は全く干渉せず、またある人は宇宙人でも見るような視線を送る。転校生なんてこんなものなのだろうか。どのクラスも決まって同じ人種が決まった人数だけいる。学校は社会の縮図とはよく言ったものだ。まったく世界は広いのか狭いのかよくわからない。
 放課後になり、この学校でも帰宅部を選んだ僕は早々と帰ることにした。外は相変わらずの雨である。傘を差し、正門を出て歩き出す。
 そして、ふと森に目をやる。紫陽花が茂る森に。
 朝は色までじっくりと見なかったが、ここの紫陽花はどうやら青と紫の二色のみらしい。もっとも、紫陽花という植物は、梅雨の間に何色にも変化することを何かで読んだことを思い出した。どこを見てもその二色だけしか……、
「……ん?」思わず声に出す。
 よく見ると白色の紫陽花が申し訳なさそうに群生している。まるで、甲子園球場の中の巨人ファンのような比率だ。僕は、その雪のように白い紫陽花に近づいていく。
 紫陽花の高さは僕の身長ほどの高さであった。一夏だけに生きる蝉のように、ここの紫陽花は生き生きとしている。
 雨に打たれてしなやかに首を振り続けるその白色紫陽花は、ずっと奥の方まで一直線に続いているらしい。まるで何かの道標のようだ。少し掻き分ければ中まで入っていけそうだったし、割と地盤もしっかりとした道になっている。
 時計に目をやる。時刻は四時少し前。家に帰ってもこれといってすることのない僕は、わずかに生まれた冒険心に従うことにした。
 生徒が門を出てそれぞれの帰宅する方角へと歩く中、僕はその白色紫陽花に導かれ、奥へ奥へと、掻き分けて歩いていった。

* 3滴の霞 *

 十分は歩いただろうか。
 なぜ僕は雨の中、片手で傘を、片手で紫陽花を掻き分けながら進んでいるのだろうか。ふと考えたがわからなかった。
 ただ広大に広がる青と紫の色彩に、一本の真っ直ぐな道のようになった白色の紫陽花の群生。こんな学校の裏にまで広がった紫陽花の森の奥に何かあるというのか、何もあるはずが無いと考えながら、ただ進んでいる。
 相変わらず止むことの無い雨が、今は少し鬱陶うっとうしい。制服が気づけばびしょびしょに濡れている。
 そのとき突然手が空を掻いた。
 一本に続いていた白色紫陽花の終端だった。
 足元には石畳があり、その先数十メートル先にあったのは、神社だった。
 神社といっても非常に小ぢんまりとした大きさだった。一際目立つのが中央に構える賽銭箱さいせんばこだ。
 人の気配の全く無い、まるでここだけ時間が止まってしまったかのような、そんな空間だった。
「うわぁ……なんだ、ここ……」
 僕は賽銭箱の方へと近づいた。小さな神社の屋根は、二人が雨宿りするのに精一杯だろう、と思いながら僕は傘をたたむ。
 賽銭箱をよく見ると、洗濯機ほどの大きさの色褪せた木造の賽銭箱だった。何か文字が書いてある。
「財浄……?」汚れていて少し読みづらい。
 神様が中でゴロ寝でもしたら定員オーバーになりそうな狭さの部屋が、賽銭箱奥の扉の隙間から見える。
「あー! 賽銭ドロボォ!」
 そのとき、突然後方から大きな声がした。僕は口から出そうになった心臓を片手で押さえ、勢いよく振り向く。
 僕が掻き分けて出てきた白色紫陽花の目の前に、桃色のレインコートを着た女性がいた。
 まだ若い。僕と同じくらいの年齢に見える。一緒の高校だろうか。レインコートのフードは被っていない。髪は腰までありびっしょりと濡れている。足元は、その派手なレインコートよりだいぶ暗い桃色の長靴を履いている。手は後ろに組み、首を四十五度に傾けて笑顔でこちらを見ていた。
「お・賽・銭。盗むつもりだったでしょぉ!」
 少し離れていてもよく聞こえるほど通った声だった。
「ち、ちがう……よ。たまたま、ここに来ただけだ……」
 僕は何も悪いことはしていないはずなのに、下がり調子の発音で答えてしまった。盗人に間違えられると誰でもこうなるのだろうか。
「本当にぃ? だって、お賽銭箱をじぃーっと眺めていたじゃない」
 彼女は、足でピチャピチャと水溜りをもて遊ぶようにしながら近づいてくる。
「そ、それは……。何か書いてあったから……これ、財浄って」
 僕は賽銭箱に書かれた文字を指さす。まだ少し心臓の鼓動が速い。
 すると、彼女は突然吹き出した。
「ぷっ。あはは! それ……、浄・財って読むのよ? 右から読むのよ、み・ぎから! あはは!」
 彼女は「じょうざい」と「みぎ」いう言葉に合わせながら、右手でぽんぽんと空中を人差し指で叩く。そして、腹を抱えて笑い出した。
 盗人呼ばわりされたのは百歩譲っていいとして、だんだん僕は腹が立ってきた。なんだってそんなに笑われなければいけないのだ。横書きなら左から読むのが普通だろう。
「う、うるさいなぁ! 何だよ!」僕は声を荒げる。
「あらぁ、ごめんね。怒ったぁ? 何って私は香澄よぉ、雨貝香澄あまがいかすみ。振る雨にアサリの貝、花香るの香るに、澄み渡るの澄み。あ・ま・が・い・か・す・み。あなたは?」
「え? 僕は……霧原陽一きりはらよういち。霧雨の霧、野原の原、太陽の陽に一番の一……」
 別に名前を聞いたわけではないが、逆に聞き返されてしまったため、とっさに答えてしまった。
「へぇ……陽一くんねぇ。ふぅん、明るそうな名前ねぇ」
 そう言う彼女は、もう僕の目の前に立っていた。背は僕より拳一個分ほど高い。
 彼女は僕をじっと見つめる。
 その瞳の色に僕は驚いた。綺麗な深い紫色をしている。まるでアメジストのように輝くその瞳に、ブラックホールのように吸い込まれそうになった。
「なぁに?」また彼女は首を傾ける。
「あ、いや……」僕は思わず目を逸らした。
「うふふ。変な人ぉ。 ところでさぁ、陽一くんさぁ、帰らなくていいわけぇ?」
 舌足らずなしゃべり方をする子だな、と僕は思った。帰るだって? まだそんな時間じゃあ……。
   僕は腕時計に目をやる。
「え! 八時?」
 夜の八時をとうに回っていた。もともと梅雨のせいで薄暗いが、いつの間にか辺りが真っ暗になっている。
「か、帰らなきゃ!」僕は慌てて紫陽花の森の方へと引き返す。
「白色の紫陽花があるでしょぉ? それを辿っていってねぇ! それと、あたしのことは香澄でいいわぁ。じゃばいばいー。またねぇ」
 青と紫の紫陽花を掻き分けかけていた僕は、数メートル右にある白色紫陽花に目をやる。
 別に、道は一直線だったじゃないか、そう言おうと思い振り返ると、もう雨貝香澄と名乗った女の子はいなかった。そこには、暗闇に溶けかけた神社だけがあった。
 雨はいつの間にか霧雨に変わっている。
 僕は白色紫陽花をまた掻き分けて、元来た道を戻っていった。
 遅くなりすぎては母さんが心配する。急がないと。
 小走りになりながら、思考はだんだんと先ほどの子に移っていった。
 あの子は何だったのだろう、何であんなところに……? それにあの瞳の色、一見黒に近いが、近くで見たそれはどこまでも深い紫色をしていた……。
 青と紫、緑だけの色合いの森は、どんどん闇に変わっていく。
 闇と同化しつつある無数の紫の点が、あの子の瞳に思えて、少し寒気がした。
 加速度を増す僕は、白い紫陽花から目を離さずにはいられなかった。


07/07/14 氷鳥さんからの挿絵

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続く


この作品は梅雨の季節に書き上げた連続小説です。
まだまだ続きます!
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感想、批判、一言……なんでも大歓迎です。
ずばり、○○点だ! と百点満点の点数を付けていただけると嬉しいです。
とはいうもののまだ続編がありますので、もしよければまたお越しくださいね。
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