【1】
* 9滴の魔法 * 僕は息を切らしながら森を探し回った。
雨は強さを増し、容赦なく体を打ちつける。
少し寒い。眩暈 がする。
雨が異様に冷たく感じられた。
雨がいつもより凶暴に感じられた。
手にした一体のてるてる坊主はすっかり水を含んでしまった。綺麗な丸い頭を結ぶ紐が解けかかってしまっている。どこにもいない。
本当に幽霊だったのだ。走っても、走っても、またこの場所に辿り着いてしまう。僕を迷わせてどうするつもりなのか。これは雨の
仕業 か、それとも彼女の仕業なのか。
とても疲れた。
僕は膝から崩れるように倒れた。
少しずつ意識が薄くなっていくのがわかった。
僕は遠のく意識の中で、神社の屋根に白いゆらぎの幻想を見た。
それは、逆さに吊るされた無数のてるてる坊主だった。
もう少しだけ、雨が続いて欲しいという魔法が込められた……。
* 1滴の霧 * バスを降りると一面田んぼだらけだった。
うわぁ……、今度の場所はまた凄い場所だな……、と僕は思ったが、言葉には出さなかった。
父さんの仕事の都合上、僕は小さい頃から頻繁に引越しをしている。長くても半年しか一定の場所にいたことが無い。その、自分ではどうしようも無い掟に従い続けて、もう十六年になる。不満というわけでは決して無いが、やはり友達ができない寂しさも少しはあった。しかし、そんな感情も今ではクッキーを食べた後の食べかす程度しか残っていなかった。
今度の引越し先は、静岡の町外れだった。たった今、バスが到着して降り立った場所がここだ。もう日は西に沈みかけている。町外れというか村外れというか、田んぼしか目に付かない。そして、おまけにこのじめじめとした梅雨の長雨のせいで、霧がかった風景は一層侘しく見えた。
「母さん、ここからは歩き?」
僕が尋ねると母さんは、
「そうねぇ。お父さんからはそう聞いているけど……。よいしょっと。陽一、これ重いから持ってくれる?」トランクを僕に渡しながら言った。
今年の四月にまた転勤が決まった父さんは、六月までの二ヶ月間はこの地に単身赴任していた。おそらく、父さんと母さんが高校生になった僕を考慮してのことだろう。しかし、単身赴任に慣れない父さんは、僕と母さんをここへ呼んだ。父さんらしいといえば父さんらしい。単身赴任をするようになれば僕と会えないから寂しいのだろうか。いや、僕が寂しくならないようにとの気遣いに違いない。
変わることの無い田んぼ風景の中の一本道を歩き続けて二十分。僕と母さんは、父さんの住むアパートに到着した。二階建て、全六部屋の小さなアパートである。単身赴任先の者たちが集うためだけに建てられたのかのような印象を受けた。
僕と母さんは、二階の一番奥の部屋に向かった。母さんが、あらかじめ父さんから受け取っていた合鍵で鍵を開け、中に入る。このアパートの部屋の臭いなのか、梅雨独特の湿り気の臭いなのかわからないが、少しカビ臭かった。
室内は思ったより広かった。三人が暮らすには少々狭いが、父さんは仕事で一日いないし、母さんもまた遅くまでパートでもするのだろうし、僕だって昼間は学校だ。 母さんは手荷物をテーブルに置いた。
「ふぅ。疲れたぁ。さてと、お父さんが帰ってくる前に夕飯の支度しなくっちゃ。陽一も明日から学校よね。この近くらしいわよ。歩いて三十分くらいみたい。今日は疲れたでしょ、早めに寝るのよ」
「うん。わかったよ」
僕は答えながら窓を開ける。窓際には小さなてるてる坊主が一体、大きなてるてる坊主が二体、ぶらさがっている。顔は描かれていない。
父さんったらまだこんなてるてる坊主なんか……。僕ももう子供じゃないのだから。
運動会、遠足、お祭り。何か僕に行事があるたび、父さんはてるてる坊主を作って窓際に吊るしていた。引越しばかりで迷惑をかけている親から子への罪滅ぼしだろうか。 ふと外に目をやる。五月の終わりから降り続く雨は、霞の景色を創り出していた。
雨は嫌いでは無い。
確かに、今日みたいにじめじめとした長雨が続くと少しうんざりはする。しかし、心の片隅でどこワクワクする自分がいた。雨が屋根を叩く音、雨が創り出す絶妙な明暗、そして湿り気のある匂い。
一人で、家で遊ぶときは雨音が僕に話しかけてくれる。
一人で、外で遊ぶときも雨粒は僕に何度も触れてくれる。
雨は、小さい頃からの数少ない友達だった。
引越し続きで嫌になった僕の気分を時に励まし、時に勇気づけてくれた。
今も降るこの梅雨の雨は、僕に何かを伝えようとしているのかもしれない。さあっという静かな落ち着いた声で。
そんなことを思いながら景色を見ると、遠くに大きな建物が見える。長雨が生み出した微小な霧のせいで確定はできないが、おそらく明日から通う高校だろう。その横には建物よりさらに広大な広さの森が見える。高校の敷地の二、三倍はあるだろうか。敷地を取り囲むように茂っている。それ以外の景色は、既に嫌というほど目に焼き付いてしまった田んぼが広がっている。
「陽一、ちょっとジャガイモの皮むき手伝ってくれない? お父さん気が利くわぁ。夕飯の材料揃えておいてくれたみたい」
母さんに呼ばれ、僕は台所へ向かった。気づけばカビ臭さに混じってカレーの匂いもする。
久しぶりに家族三人が揃って食べる夕食は、どうやらカレーのようだ、と僕は思った。